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「求人の仕事なんてやめちまえ」

当時、僕の仕事は求人記事を毎月4,000文字×8本書くことだった。

年間の売り上げ目標が1,500万円。ひとまずそれを達成しないことには何もいうことが難しかった。

けれども、次第に流れ作業になっていく執筆。やがてファインダー越しに眺める東北も近畿も、違いがわからなくなった。

そうして求人の仕事を続けられなくなった自分を「弱い」と話したビジネスパートナーがいた。当時の僕は「弱かった」のか。その後、3年間にわたって自問し続けたある日、彼の離婚話を聞いた。またか、とおもった。東京に残って「ソーシャル」のお題目を唱え続ける、あるいはソーシャルのひな壇に乗せ続けられる彼らはことごとく家庭に終わりを告げていった。

「あなたに騙されました」

笑顔で向けられたその言葉がなかったら、とっくに求人の仕事などやめていたと思う。現に、机を並べた仲間の一人は詩人に。もう一人はデザイナーになった。過去の成功という生ぬるい未練だったらどれだけ楽だったろう。人の人生を、自分の筆が左右しうる。その事実と直面した時に、描き続けなくてはいけないと思った。たとえもう求められていなくても。「騙す」つもりのない人間がやがて誰かを騙すこの社会というものを知るまでは、筆を置くことはできないのだと思った。

だから、紀伊半島へ来たことは偶然ではない。どこでもよかったわけではない。ここでやるしか、もうなかったのだ。

「別れたおんなは」

別れたおんなが、彼女の母親の葬式で見せた表情は、一生忘れることがないと思う。人が人を憎しむ、拒むとはこういうことなのだ、と初めて知った。もう対話のゆるされない「別れたおんな」が夢に出てくる。寝汗とともに起きる。あの日から自分は一歩でも進めたのだろうか。あの日から自分は少しでも優しくなれたのだろうか。あの日から自分は日々懸命に生きてきたのだろうか。2012年、自分があの仕事に就いた経緯を紐解くと、家庭内暴力の絶えなかった実家や記憶を失うまで飲酒した祖父の顔が浮かんできた。そして、あの日書き続けられなくなった原稿用紙を、もう一度書き始めなければいけないと思った。もうあの日使っていたペンもインクもない。それでもボールペンが、鉛筆がある限り書き続けなくてはいけない。「続けなくてはだめだよ」と再起の声をかけてくれた人もまた、紀伊半島の人だった。きっと誰にでも、別れたおんなという存在がある。

<村上航、ユニットバスの木桶>

3年ぶりに泊まった彼の家は、ずいぶんとコンパクトだった。