南伊勢をあるくvol.1阿曽浦・道行竃編(三重県)【前編】
阿曽浦をあるく
人口約750人。町内に38ある集落のなかでも、3番目の規模を誇る。かつては真珠養殖で隆盛を極め、現在でも海沿いに軒を連ねる真珠小屋が代表的な風景だ。リアス式の地形を活かした真鯛の養殖も盛んに行われている。
海が迎えてくれる町
最寄駅からバスに乗り、緑一色の田園風景の中を進む。信号機が減り、歩く人も見なくなった頃、町境にある2つのトンネルの暗闇へと入る。
暗闇から目を慣らす間もなく現れるのは、海。バスの車窓から見える風景に、思わず息を飲む。
ここは、南伊勢町の玄関。
住み始めてもうすぐ2年を迎える今も、野見坂峠のトンネルを抜けるたび、「町境の長いトンネルを抜けると“海の町”であった」と呟くことがある。
川端康成の『雪国』の台詞「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を思い出すのだ。
ぼくがここへ来たきっかけは、一人旅だった。大学3年生の時、伊勢神宮を訪れた。旅先のご縁を通じて、南伊勢町の漁師と出会った。漁業という未知なる世界。自然のど真ん中で働く人間の力強さに衝撃を受け、憧れてしまった。
東京の大学を卒業してすぐ、真鯛の養殖屋へ就職を決めた。それまでは新聞記者になろうと思っていたのに、人生が180度変わった。
“陸の孤島”の暮らし
この町は38の集落からなる。そのなかでも、ぼくの住む阿曽浦は四方を海と山に囲まれている。そんな、島のような集落が好きだ。
阿曽浦へ向かうには、南島大橋と阿曽浦大橋の“親子大橋”を渡る。毎日この橋を車で走り、海を渡る。海があるという当たり前を贅沢に思えるのは、きっとぼくが移住者だからだ。
ここに生まれ育った人々は、「阿曽浦はかつて“陸の孤島”だった」という。この集落に陸路が開通したのは1960年代。たった50年ほど前まで、阿曽浦では渡船が唯一の移動手段だった。
そんな陸の孤島の朝の漁村を訪ねれば、そこにはみなさんの食卓の裏側が広がっている。
漁師が働く風景は、食卓の裏側
季節は秋。漁師の朝は早い。
日の出よりも早く、漁師町は動き出す。船のエンジンやカモメの鳴き声の音が、まだ薄暗い町に朝を知らせる。
ぼくが働く友栄水産では、毎朝お客さんの元へと真鯛を出荷する。海に浮かべた生簀から魚を掬い、一枚ずつ鯛をカゴに詰めてトラックに積んでいく。
お届け先は全国各地の旅館、飲食店、釣り堀など。この日は、愛知県の釣り堀がお届け先。社員が直々に、トラックを運転していく。
ひょっとしたら、あなたの夕食になっているかも?そう、ここには食卓の裏側があるのだ。学生時代から食べ物の生産現場に興味のあったぼくは、自分の生活を支えるものを知るために、幾度か通う中で移住を決めた。2018年度からここでは、漁師体験ができるゲストハウス「まるきんまる」も始まった。もしあなたも興味があれば、気軽に訪ねてみてほしい。
「魚が好き」「海は一緒」
そんなオープンな気風の職場には、ぼく以外にも移住者がいる。名古屋市から移住してきた、同期の佐々木君だ。アクアリストを養成する専門学校を卒業後、魚が好きという気持ちひとつで引っ越してきた。
当時、彼は20歳だった。友栄水産の社長は漁業が“忘れられた産業”だと言い、世の中では一般的な職業じゃない。その仕事の選択肢を知っている人は僅かだし、漁師というだけで驚かれることも多い。
決して世の中で持て囃される職業じゃない。それでも魚が好きだから、彼は漁師になった。
ぼくも法学部を卒業しているので、「なぜ漁師になったのか?」とよく聞かれる。進む先が弁護士であれ、ベンチャーであれ、Youtuberであれ。自分の思いに正直に生きるという選択はすごく素敵なことな気がする。
モアナは、フランスからワーキングホリデーで働きにきた。彼の故郷はタヒチという太平洋の島。きっと海に惹かれるものがあったはずだ。まだ彼が日本語も十分に話せないころ発した一言が、忘れられずにいる。
「海は一緒」
地球に海は一つだけ。海を眺めれば誰しも、その先に必ず続いている故郷を思い出してしまう。海にはそんな力がきっとある。
この後ぼくは撮影のため、海の仕事を抜け出して阿曽浦の集落を歩きました。
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