地方型コワーキングスペースとは何か-僕のオフィスはすき家、午前3時に10個目の唐揚げを頼みかけて
地方型コワーキングスペースあるいはシェアオフィスとはなんだろう。
さとびごころの連載コラム「オフィスキャンプ代表坂本大祐とエルインク阿南セイコの一問一答」を読みながら考えている。
今、僕のオフィスは春先の公園や、モスバーガーや、深夜のすき家だ。オフィスの物理的条件であるWi-Fi、電源、机と椅子が揃うからだ。
もちろん家で仕事をすることもあるけれど、起きてから寝るまでずっと一人の生活は、つらい。目が覚めると「おはよう」、布団に入ると「おやすみ」を言うのだけれど、つらい。だから家を飛び出る。
たまに、モスバーガーの店員さんに気さくに話しかけるおじいちゃんがいるけれど、その勇気は、ぼくにない。
かといって、昨日の仕事が積み重ねられた会社のオフィスにも、所在なさを感じてしまう。
その中間にあるのが、コワーキングスペースと思う。
<東京でソーシャルに出会う>
僕は社会人になって4年間は、東京新橋のオフィスに毎日出社していた。仕事には真面目だったし、一生懸命だったと思う。
おじいちゃんやお父さんの多い職場で、午後3時になるとお姉さんがおやつをくれて、なんだかいつもヌクヌクしていた。
居心地はよかったけれど、あたらしいことをつくりたくて、転職をした。
あたらしい仕事は、「社会課題の解決」を仕事にする人々の話を聞いて、文章にまとめるライター。新聞記者のような仕事だった。
仕事の充足感と、満員電車から解放された優越感。一人でいることが多かったけれど、不思議と孤独は感じなかった。ずっと原稿用紙に向かっていたかった。自分からあたらしい言葉が出てくることが、楽しくてうれしかった。
いわゆるソーシャルは、モチベーションにはならなかった。インタビューしていると目の前の人を好きになってしまう。「こんな人がいるんだよ」って写真と文章でめいいっぱい伝えた。「いい仕事だね」と言われることも多かった。でも、今思えばムリもあった。お客さん以外の誰かには、ずいぶん辛い言葉も吐いた。仕事に過剰な社会的意義を見出そうとしたり、それを持てない人を軽視する気持ちもあった。
やがて僕の体にガタが出はじめた。頸椎症になった。整体に行き、針に通い「みんな頑張ってるんだから」と自分に言い聞かせたけれど、もう続けられなかった。
<会社も、ソーシャルの看板もなくなった午前3時のすき家で>
翻って今、地方都市。深夜のすき家でふたたび頸椎症に悩まされながら原稿を書いている。
23時入店、眠気覚ましのように時報がなるたび唐揚げ2個を注文。4回目の注文で原稿を仕上げた。でも、酷評だった。誰も幸せにならない。これは一体なんだろう。Kiiやめた方がいいのかな。会社も、ソーシャルの看板も、もう守ってくれないし。
時間の過ごし方を見直さなきゃ、と思った。
<コミュニティの中で唐揚げは回らない>
僕は今、一人でいることがしんどい。
書く時は、原稿用紙を通して相手の人といる感じがする。だから、「誰か」になれるモスバーガーがちょうどいい。でも、書き終わった後の一人感がすごい。三条通りを歩きながら「フリーランス 孤独 うつ」とググってしまう。
縁もゆかりもない地の孤独を侮るなかれ。
きのう出会った木工作家の方に「一人、しんどくないですか」と聞くと「そうでもない」とのことだった。家に帰ったら、パートナーがいるからかな。
編集者の方は「『しんどいいいい』って言えばいーんだよ」と。
夜のない東京では、みんな孤独を持っていた。ビールがあれば、成長とか競争とか、終わった嘘にまだ酔えた。けれど、県庁所在地でさえしっかりと星空の見えるここでは、孤独がずんと目の前に現れる。
「だから、コミュニティの中で、あなたは書いていけばいいんだよ」と言われた。
コミュニティとは、「夜中に唐揚げなんかやめときな」と言ってくれる関係性である。
話をオフィスに戻そう。
地方におけるco-とかshareというのは、経済的合理性から物理空間を共有するものじゃない。オフィスやワークをうたいながら、効率性とは対極にあるのが地方型コワーキングスペースだと思う。だから、無駄が多いはず。この人は「身振り手振りをまじえて話すな」とか「最近目を見て話すようになったな」とか。
待てよ、それは無駄なのかな。
それは、経済的価値を生み出さないのかな。
<弱さの情報開示>
少しかた苦しそうな話を。
東京を出る前、僕は統合失調症の当事者グループや、性暴力の勉強会を訪ねまわっていた。
当事者のグループでは「自分に病名をつける」ワークショップが行われた。「八方美人すぎてたまに爆発します病」とか「電話の着信がこわくて返信がいつも遅れます病」と名づけて、みんなにプレゼンする。病気の話をしながら、笑いが起きる。近しいことを、性暴力の勉強会では「弱さの情報開示」と名づけていた。WHOでは、障害をこう定義づけている。「障害は環境によって生み出されも、解決もされる」。
変わるべきは、個人に抱えさせる社会なんだ、と。
<もしKiiがコワーキングスペースを運営したら>
そもそも日付が変わるまで運営しているかは別として、午前零時を回って唐揚げを食べたいというメンバーがいたら、いさめると思う。コワーキングスペースやシェアオフィスは、仕事を口実として、誰かと誰かがともに生きるための場所だ。
目の前に浮かぶのは地方都市の朝8時、年配者の集う地元喫茶店。
コワーキングスペースでも、「ちょっと最近太ったよね」とか「眼鏡似合ってないよ」とかそういうの言い合えるのがいいなぁと思う。
(2018/2/6 おしまい 最後まで読んでくれてありがとう)