「就職先は450人の村。新卒で北山村へ移住するまでの、筏下りのような学生生活」和歌山県北山村/新卒×移住/前編
新卒で、ぽんと紀伊半島へ。
和歌山県北山村に荒井恵理(あらい えり)さんを訪ねました。
2015年にインターンシップがきっかけで北山村へ。2017年4月から、北山村役場へ就職しました。
人口450人の北山村は、全国で唯一の飛び地の村です。花粉症に効能があるとされる柑橘「じゃばら」の産地として2010年代より注目を浴びるように。
取材前は「新卒×移住?どんな人だろう」という色メガネもあったけれど、いざ会うと、ごくふつうの20代だと思いました。
「偶然に出会った北山村だけれど、必然に変えていけると思います」と話していた荒井さん。
前・後編に分けての紹介です。
<前編>
–よろしくお願いします。出身は埼玉と聞きました。
そうです。大宮市、現・さいたま市の産婦人科で生まれて、高校は川越市、大学は新座(にいざ)市。大学卒業まで、埼玉で育ちました。
高校は進学校に通っていたので、ほとんどの同級生は、大学受験に向かっていました。そんな中、わたしはふと立ち止まってしまって。「ん、大学かぁ」「行く意味はどこにあるのかな」。
–やりたいことが見つからなかったの?
進みたい方向はあったんです。
きっかけは修学旅行。はじめての海外には、テレビでしか見たことのない世界が広がっていました。
はじめて英語をネイティブの人に使う機会があって。「自分が勉強している英語って、ほんとうに言語として使えるんだ」「旅ってすごいなぁ」と改めて思った。
観光に関わることをやっていきたいと思ったんです。
高校生なりに考えた職業が、ツアーコンダクターとJTBの窓口でした。進路も大学に限らないのかなと思って。
専門学校へ進むつもりだったんですけど、学校側の大反対にあって(笑)。「大学に進みなさい!」と。そのとき、ある大学の観光学部での指定校推薦の話が出てきたんです。
–で、大学に進んだ。
そうです。大学に進んで、観光に関わる仕事はJTBの窓口だけではないと知れたことはよかったです。観光の枠がぐんと広がりました。「どうして人は観光するの?」をテーマに勉強したんです。
–どうして人は観光を?
その答えは… とてもむずかしいのでまたの機会に(笑)。
大学3年になると、同級生は企業インターンシップをはじめたんですね。でも、自分がそこにいることを、なぜかイメージできなかった。そんなとき学内で、道の駅でのインターンシッププログラムを見つけたんです。多くの地域が特産品販売のインターンシップを募集する中、北山村は“筏下り(いかだくだり)の受付”とあって。「筏って?」と思い、受けてみたんです。
応募者はわたし一人だったんですよ!夏休みの3週間を北山村で過ごしました。
–関東からは、遠かったでしょう?
遠かったです(笑)。21時に大宮市を出発したバスが、熊野市駅へ到着したのは朝7時。その時点でもうヘロヘロでした。観光課の職員の方が迎えに来てくれたんですが、そこからの1時間が、また(笑)。
観光をかねて、日本の棚田百選に選ばれた丸山千枚田を経由していただいたこともあって、村が遠い、遠い。クネクネの山道を進むと、時計が止まったような静かな集落がぽつぽつ現れるんです。「この先に人は住んでいるの?」「ペーパードライバーの自分がこの道を運転できる?」。ずっと頭の中で「マジか〜」って叫んでました。
北山村では、役場の近くに家をお借りしました。筏下りの受付を行う北山村観光センターまで、自転車で通う毎日。ペダルをこいでいると、軽トラックから声をかけられるんです。「どっから来たん?」「埼玉です」「と〜い(遠い)ね〜!」
–筏下りってどういうものですか?
北山村は、江戸時代から林業の村でした。大阪をはじめとする都市部では、木を大量に必要としていたんです。とはいえ、車もない時代です。山から切り出した木材をどうやって運んだと思います?
川を利用したんです。
木材集積地である新宮市まで、筏で運んだんです。一時期は、村民の大半が筏師でした。昭和30年代には車での輸送に切り替わり、筏師の役目も終わりました。
仕事のなくなった筏師は、仕事を求めて村を離れ、過疎に向かっていってしまいました。
村の再生をかけて、筏下りを観光として復活させたのが、北山川観光筏下り。筏に乗って、川を下るんです。もともと村にあった山の仕事を、時代に合わせて今の仕事にしたんですよね。
現在は13人の筏師が、はたらいています。筏師、かっこいいんですよ!中には、筏師になりたくて、外から越してきた人もいます。
写真の奥のほうに、白くなっている川が見えますよね。あそこは「音乗(おとのり)」というんです。
–おとのり。
筏下りの難所の一つです。命を落とすこともあったから、家を継ぐ嫡男(ちゃくなん)ではなく次男が筏に乗る。「弟が乗る」から「おとのり」という名前がついたそうです。
–あそこも、観光筏で下るんですか?
もちろん。だから、お客さんを乗せるまでには、最低3年はかかります。次はぜひ、乗ってみてください。
–北山村で夏休みを過ごして、どうでしたか?
山奥の飛び地の村で、こんなに気さくな人に出会うとは思わなかった。かきいれ時にも関わらず、時間を惜しまず話してくれる筏師のみなさん。「うちはそこだから、ご飯食べにおいでよ」と声をかけてくれる人。熊野市へ向かう村営バスに乗っていると、「今日休み〜?」と声をかけてくれる人。バスの時間が合わなくて、車に乗せてもらったことも。人に魅せられたんだなぁ。
インターンを終えてからも、村へ遊びに来たんです。大学4年に入ると、北山村の筏師をテーマに卒論を書きはじめました。卒業を前に「このまま東京で就職していいのかな?」「なんとかこっちで暮らせる方法はないかな」と思いはじめた。月に一度、紀南へ通う中、11月に北山村役場で職員の募集が出たんです。
–すぐに応募を?
「う〜ん、どうしようかな」と思った。試験日まで1月。その上、資格試験と卒論の提出日が詰まっていたんです。研究室にゼミの先生を訪ねると、ぱたっとパソコンを閉じて「受けなさい」と。挑戦してみようと思ったんです。
–試験は余裕だったんですか?
わたし、数学がほんとうにほんとうにわからなくて(笑)。アルバイト先の塾で、数学の先生に助けてもらったんです。結局最後まで、わからずじまいだったんですけど(笑)。
それでもなんとか採用が決まったんです。卒業式の翌日に北山村へ出発して、4ヶ月が経ちます。
<後編>へ
*荒井恵理さんを紹介してくださったのは、Guesthouse RICOの宮原崇さん。ありがとう〜